ドリーム・マシン読了

クリストファー・プリースト『ドリーム・マシン』(中村保男訳)読了。


なんか訳が古いなと思ったら、初版が1979年だった。どおりで…。


とにかく私は、主人公ジューリアに幸せになってもらいたい一心で読み進めた。
彼女が元彼のポールから受けていた扱いは、(30年以上前の本だからそうは書いていないけど)完全にDVだと思った。
身体的なそれより、心理的に屈服させられ、支配させられる精神的DVのほう。


果たして彼女が最後には救われるのか、それとも絶望的なラストによって打ちのめされるのか
それは作者の手ひとつにかかっている。そのなりゆきを、息をのむように、見守るしかなかった。


とくに、ポールがまんまと投射実験に割って入ってきて以降は、どきどきしてたまらなかった。
現実世界ではポールに襲われそうになるのをかろうじて撃退できたけど、投射先ではどうなるのか、
まんまとリーダーにおさまるポールによって、意のままにあやつられる投射メンバー。
そして…。


ん?
こういうのって、結末とか書いて良いのだか悪いのだか…


自分の備忘録としてこのブログを使っているから、他人の興味を引くものではなく
どうせ誰も読まないから、と思う一方、でもブログという開かれた場である以上、
誰かが通りすがりに見る可能性もあって、そしたら、結末を伏せるのが
いちおう、公共の場としてのエチケットとして必要なのかと思ったり、
迷ったあげく、とりあえず結末については語らないことにするが、


それにしても私は、ジューリアがなんとか必死にポールに立ち向かおうとする、
その原動力が、ハークマンという新しい男性の存在によって
生み出されるという図式に、女性としてうなづけるものがあった。


よく、失恋の一番の特効薬は新たな恋愛とかいうけど、そんな感じかなと。


***


とはいえ、この本、途中からあまり理解できなくなってきたのですよね。


前述のように、ポールが参加してから、ストーリーにはますますひきつけられんだけど
論理的な点は、そのへんからちょっと頭がごっちゃになっていった。

投射する現実とされた未来の存在が交錯しているあたりのロジックが
いまいち、腑に落ちなくて、どうなってんの?という感じ。


(巻末で訳者中村氏が指摘している、ジューリア再登場が
投射機からではなくトンネルからだった矛盾(本書384頁)なんて、
まったく気づかなかったし…)


それは、私の理解力が足りないせいであるけれども、
そういうときは、分からないままになんとなく読み進めるというのが、
超文系人間である私なりのSFとのつきあい方なのですが、
SFファンとかでもない、ただの一読者なら、それも許されるかな、と思う。
(というか、ぜひお許しくださいませ!)


それを承知で、そのストーリーが分からなくなってからの感覚が、
ディックのそれを読んでいる時の浮遊感というか不安感−つまり、
どれが現実でどれが非現実か分からなくなるという感覚に似ているなあ、と
ふと、思ったりしたのですが、そしたら、巻末の安田均氏による解説に


 (前略)(プリーストは)想像世界の背景描写を入念に行ない、
  その背景が主人公たちの心象によりドラマチックに変貌するさまは
  見事という言葉につきる。(中略)同じ現実崩壊感覚を描いても、
  フィリップ・K・ディックの用いる原色のコミックスのような世界とは
  好一対であるといえるだろう。(本書392頁)


とあった。


ああ、通は、その同じ感覚の中でも、さらなる作風の違いを
ちゃんと指摘しはるのだなあと感心したりした。


ドリーム・マシン (創元SF文庫)

ドリーム・マシン (創元SF文庫)