腑に落ちること・論理的であること

この日付の朝日新聞朝刊1面に、錦織圭の全米テニス初の4強入りの記事があった。
それはそれで素晴らしいことなのだが、その下に「元全仏覇者コーチ、自信注入」という記事があり、私はむしろそちらの方に興味を引かれた。


その記事には

・錦織は心の指南役をイメージしていたが、助言は技術の細部に及び、「直すところが多すぎてショックを受けたけど、
充実感で感動した」。説明が論理的で、反論の余地が見当たらないという。


とあった。この「論理的」というのが、いま私がいちばん求めていることで、いろんなことについて、経験論だけじゃなく(というか私にはたいした経験もないし)、私よりもっと理屈っぽい人でも納得できるような説明を用意しておけるようにしたい、ということです。


私自身、いろんな先生に習ってきたけど、先生によってはまったく異なることを言われたこともあった。そのなかで自分は、そのことについて先生あるいは自分自身で「こうすればうまくできる、それは〜だからだ」ということを説明できるほうを選択してきた。いいかえるなら、腑に落ちる方を選択してきた。


また逆に、複数の先生が同じ事をいっているのに、ある先生のおっしゃることはうけいれられず、別の先生のおっしゃることはすんなり納得できた、ということもあった。これもポイントはやはり「腑に落ちる」、つまり、論理的である、ということなのだ。