水都大阪さんぽ〜野田・玉川編

散歩・・・といっても仕事で行ったのだけど。先日、急に入ってきたこの日の仕事は地下鉄阿波座の方だったけど、JR野田駅から降りて、ちょっと歩いてみることにした。


まず野田駅で降りて、改札を出たところにあった地図の方向と、手持ちの地図とのつきあわせに手間取った。このへんはJRと地下鉄千日前線が微妙な角度で交差しているからである。なんども歩き出してはまた地図に戻りを繰り返し、やっと決心を決めてJR高架下のアーケードに沿っててくてく行くことにした。


これまた妙な角度の交差点を渡ると、↓のような石碑が目に入った。
あ、ここってGWに家の人と来たことあったんちゃうか、と思い出す。


しかしその先は未知の世界だ。とにかく途中までは、高速道路にぶつかるまで歩き、あとはしばらくそれに沿って歩けばいいはずである。「いかにもこっち」という感じの大きな道路の方に引かれそうになったが、しかし、高速道路は別の方向にあるので、不安だが上の石碑から斜めに入っていく細い道を歩き始めた。


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高速道路は場所によって見えたり隠れたりしてていまいち自信がなかったが、そのうち手持ちの地図にあるお寺と同じ名前のお寺の前を通り、やっぱこっちで合ってたんだとホッとした。


そしてなんやら民家の近くに何か建っていて、その横にプレートが添えられていた。
(写真は帰りがけにとった)


なんやらぶっそうな「野田村二十一人討死」という文字が目に飛び込んでくる。私は知らなかったのでこれを書きながら調べてみると、ウィキにこのように書いてあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%8C%BA

1532年には本願寺光教(証如上人)が福島砦を視察した時に近江観音寺城主六角定頼に包囲されたため、野田・福島の門徒が救援に駆けつけ危機を脱したが、この時に定頼軍との戦いで戦死した門徒21人を野田二十一人衆という。現在も二十一人討死の碑が玉川4丁目に建てられている

こんなのも、高校で日本史をちゃんとやった人なら知ってるのだろうか。


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道はここから高速道路の高架にぶつかり、それからしばらく高架沿いに歩く。道は次第に上り坂になり、地図によればここから大きな橋を2つ渡ることになる。まずは1つめの橋だ。(どっちも写真は帰りがけに撮った)


高速道路も入れて撮ってみる


行きがけには気づかなかったが、帰りにふと見かけてこれもパチリ。
へえ、これって輝ちゃんのデビュー作だったんだ。

ウィキ:泥の河
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A5%E3%81%AE%E6%B2%B3



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橋には鉄板みたいなところがあるので、そこで滑らないよう気をつけつつ、もう一つの橋に渡る。ここからは船が見えて、何人かが船の上にいるのが見える。こんな大都会の中で、ゆったりと川が流れ、船が浮かんでいる光景をみると、ちょっとのどかな感じがする(実際は一生懸命働いてらっしゃるのでしょうけどね)。人を写したら悪いかなと思って、ちょっとカメラを上下させながら一枚撮っておいた。


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この橋を渡りきって角を曲がると、大きな通りに出る。もうすぐ目的地というところの交差点で信号待ちをしていて、ふと上をみあげると、「(株)サヨカ」という看板が見えて、おもわずクスリと笑ってしまった。さすが、大阪らしいネーミングセンス! 賛成多数で決まったのだろうか、それとも社長の鶴の一声?なんて、勝手にいろいろ想像しながら横断歩道を渡ると、なんやらまた石碑のようなものが。近寄ってみてみる。


へええ、宮武骸骨と滑稽新聞なら、日本史にうとい私でもちょっと聴いたことがある。それが、こんなにひっきりなしに車が通る交差点のあるところで発行されたんか、と思うと意外な感じがする(もちろん当時はこんなんじゃなかったんでしょうけど)。



ちょっと歩くとすぐさま歴史にぶつかる。この大阪はほんとうに面白いとこだなあと思いながら、私はこの日1つめの仕事先に足早に向かったのだった。