立正安国論・天人相関説・雨男と雨女

2111年5月30日朝日新聞夕刊 仏典に学ぶ 日本1000年の知恵
 日蓮立正安国論」 不正義が招く天災 自然の背後 見えざる者への畏敬
(末木 文美士 すえき ふみひこ)


今後月1で文化欄で連載されるという、「仏典に学ぶ 日本1000年の知恵」。
この論の主旨とはリンクしないかもしれないが、ふと思ったことがあった。


この一文は、あの石原都知事の「天罰」発言からときおこし、
天罰、ではないものの、災害の由来がなんであるか、という発想から
この「立正安国論」がかかれた、と紹介されている。


それによると、災難の原因は「世間」であり、「世の不正義が善神を追いやり、
悪神を招いて災いが起こるというのである」(本文より)と。


つまり、災いをもたらす主体が天か悪神か、ということは違っていても、
その原因となるのが世の中の人々である、という点では一致している。


だからなに、と思われるかもしれないが、私はここで中国・漢代を中心とする
天人相関説をふと連想してしまった。


***


天人相関説によると、天が罰を下す対象は、ここでは皇帝一人のみである。
皇帝は天子ともいわれるとおり天との結びつきは強力で、
(皇帝・天子、この両者の関係については私にはとても論じる能力はないので省く)
皇帝の為政者としての態度いかんによって、天は祥瑞をもたらしたり
災害や怪異をもたらしたりする。


ここでは一般庶民は完全に天から無視されている存在だ。
たまに庶民がクローズアップされるとしても、それは自然と同じように
怪異をもたらし、皇帝に警告する役割を担わされるに過ぎない。


そうおもうと、一般庶民のありようが、天災を導くという思想は
なんと平等なのかと感じてしまうのだ。


(ふつうは、個人が悪いことをしたら、その個人に悪いことがふりかかる。
一般庶民にふさわしいスケールなら、せいぜいそのくらいではないのか?)


***


いっぽう、平等どころか、一般庶民が個人で影響を及ぼすというもっと尊大な思想もある。
それが雨男・雨女である。


よく「おれ雨男やねん」と気軽にいう人がいるけど、
個人の存在が、天候を左右するというのは、
実はものすごいことではないか。


おまえは神か?とついツッコミをいれてしまうのである。


これほどではないが、もちっと小さいスケールでいうと
「俺が応援行くと阪神まけるねん」というものもある。
個人の存在が、阪神を弱体化させ、敵チームを優位にさせるという思想である。
これもこれで、ものすごい影響力ではある。


さらに、その場にいなくとも、テレビ観戦という間接的なものでも
阪神に敗戦をもたらすというものもいてる。



いやはや、董仲舒もびっくりの、庶民のパワーアップであった。