中国詩はピアノ、日本の和歌はバイオリン?

2011年2月20日朝日新聞朝刊読書欄 著者に会いたい
 中国名詩集 井波 律子さん


上記からの引用です。


(前略)音読といえば井波さんの師である吉川幸次郎は、漢字一字が一音節である中国詩をピアノに、対して日本の和歌をバイオリンにたとえたそうだ。字の音が景につながるというその教えを懐かしく思い出したり
(後略)


なぜ引用したかというと、この中国文学の泰斗ととも言うべき大先生と、自分の感覚が違ったので、アレ、っと思ったからです。このふたつの楽器をたとえにつかうならば、私はむしろ逆に感じます。


中国語は一字が一音節、たとえば「熊」だったら(パンダ来日にちなみ熊猫からとりました)「xióng」なのですが、その一音節のなかには声調があるから、子音「x」を発したあと、それが「iong」によって上にずりあがります。その変化を仮に「ミ」からはじまって「ソ」で終わるというように音程の変化にたとえるならば、ミとソの間には無数の経過音が連なっています。バイオリンでいうとポルタメントのような感じというか。



一方日本語では「熊」は「くま」ですが、同様にこの二つの音節に、それぞれ「ミ」「ド」という音をあてはめたとします。そしたら「ミ」と「ド」はそれぞれピアノでぽん、ぽんと二つの音を奏でるように、独立しています。ミはミ、ソはソなのです。両者ははっきり区別されています。


そんなイメージでとらえていたので、おそれおおくもこのたとえにちょっと違和感を感じたのでした。この吉川先生のたとえは、なにかの著書に載っているのでしょうか。いちど、原文にあたってみるべきですね。



詩に関する話題だったら、こういうのから探していくべきか…

新唐詩選 (岩波新書)

新唐詩選 (岩波新書)


あるいは、入門の余談などに、ふとそのようなたとえが出てくるのかもしれない。

中国文学入門 (講談社学術文庫)

中国文学入門 (講談社学術文庫)



全集を読破する気力もないしなあ…。