虐殺器官読了
巻末の大森氏の解説を読むと
この主人公の造形は、薬によって感情を抑制された独特の
パーソナリティ云々とありましたが、
それはそうとして、深く思索する人が
軍隊という非人間的な組織にいてると、
ほんとうにつらいのだなと思いました。
何も考えず、ただ上官のいうことを聞き、任務を遂行する、
そういう上に絶対服従という人格を、理不尽な暴力で作り出すときもあるし、
この本ではそれを薬物的・科学的操作とカウンセリングによってつくるみたい。
だから人間的かというと、逆にそのことがうっすらコワイような気がします。
***
印象に残ったのは、人は見たくないものは見えない、とかいう意味の叙述でした。
意識的であれ、無意識であれ、知ろうとしない、知りたくないものは見えない。
たとえ知る手段(トレーサビリティなど)があっても、それを駆使しない。
ふと思ったのは、中国語ってそれを表現によってきちんと区別しているなということでした。
しつこくいうと、視界の中に入っているけど、網膜に写っているけど、見たとは認識していない。
(看了也沒看到)
鼓膜をふるわしているはずなのに、聞いたとは認識していない。
(听了也沒听到)
ここで、V到とV见の違いがいまでもいまいちはっきりしないところがあるのですが、
たとえば、補聴器をつけたばかりのとき、ざわざわとうるさい中の話し声などが
聞こえにくい、などの体験記を読むと、そのことを実感します。
聴覚器官から伝わったあらゆる音の中で、脳は選択的に必要な音を聞き取っているのだなあと。
もうひとつ印象に残ったのは、いくら監視を強化しても、
それが安全―とくにテロ防止―につながるとは限らない、という見方でした。
このことは、現実社会でもってもっと真剣に考えてもらいたいところだなあと思います。
***
また、この小説には、よく「レイヤー」ということばがでてきました。
作中でこの言葉をみかけるたびに、この「レイヤー」の存在を
私自身の中でもたえず意識させられてました。
(これが何より、本書と他の小説とが異なる点でした)
まずは、この小説全体を通じて(小説を読む前から)感じていた、
想像を絶する苦しみと、たえず余命を意識せざるをえない中でかきあげたであろう筆者の姿。
そして、主人公がたえず亡き母親を想起する場面では、
実際にはその逆で、死にゆく息子の姿を見守っていた作者の母親の姿。
伊藤氏の母親はこの本をどんな思いで読んだのだろうかと思いながら読んだのでした。
- 作者: 伊藤計劃
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/02/10
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