五嶋みどり

この日付の朝日新聞別刷りGLOBEでは「生の終わりに」をテーマにしていた。前のブログ(http://d.hatena.ne.jp/nikoms/20140810)で、中国での恩師の葬式から帰ってきたすぐに、新聞に「中国のお葬式」についてのコラムがあったことに、なんかシンクロを感じたのだが、またしても、である。まあ、8月というのはお盆もあり、8月15日を迎えることもあり、そういうテーマがとりあげられることも多いということなのだろうが・・・。


ただ、私が目を引かれたのは、同じGLOBEの最後に、五嶋みどりの記事が載っていたことだった。数ヶ月前に読んだ最相葉月絶対音感』で取りあげられていた、音楽家・ミュージシャン・教育家・専門家等々、さまざまな分野の膨大な人々の話のなかで、五嶋みどり、母の節、異父弟の龍の挿話が一番鮮烈に印象にのこったからだった。


天賦の才に恵まれた人が、さらに超人的な努力を重ね、たぐいまれなる存在になる(イチローもそんな感じだけど)。その壮絶さを文章で読むだけで、いったい幸せとは何かという思いが交錯する。世界で活躍する一流奏者や選手になる、そのすばらしさを思えば、子どもが泣こうがわめこうがそれをさせる、それが将来の幸せにつながるならば、ということか。


私には習い事方面において、そういうふうに親に強制された記憶がない。ただでさえ凡人なのに、そういう血のにじむ努力すらしなかった、だからせいぜいこの程度の人間なのかもしれない。では、親から強制された方がまだマシになれたのか? いや、もしそんな状態だったらたぶんやめていただろう。ピアノの先生をかわらざるを得なかった時、私は前の先生に勧められたにもかかわらず、間違えたら叩くという厳しい、しかし優秀だという先生につかず、優しい先生のところに行ったのだから。


なにがあっても歯を食いしばり、厳しい練習に耐えた凡人は、なにもしない凡人をはるかに凌駕し、厳しい練習に耐えた天才は、さらにもっともっと高みに上り詰めるのだろう。つまりそれすらできない人間は、その時点でふるい落とされる、ということだ。


でも、でも・・・と思いは逡巡する。


ま、というのは別に、MEMOの欄に、この世界的奏者が「靴下にあいた穴も繕って大切にはく」という一文を読み、大変反省した。