もう存在しない音/まだ存在しない音


ある小冊子で読んだ神戸女学院大学教授の内田樹氏のことばで、ちょっと思いあたることがあったので、書き留めておこうと思う。



それは「召命(vocation)−呼ばれることについて」という文章なのであるが、題名だけだったらよく分からないけれど、ざっと読んだ感じでは、学びのなかでの直感の大切さを語ったものだと私は理解した。


直感−を、武道の経験がある氏は「身体感覚の射程を延長する力」と言い換え、それに必要なことを2点挙げている。1つは観察力を高める=センサーの感度をあげる、もう1つは鳥瞰的に見る、ということだ。前者について、氏はあまり語っていないが、後者についてはさまざまな例を出して、「スキャン」「自分を見下ろす」「見えないものを感知する」といろいろな言葉で説明している。


ここでふと私は自分の恩師に言われたことを思い出す。自分を見下ろすもう一人の自分を作れ、ということだ。「○○さん(私の名)は演奏している○○さん一人しかいない。自分の上のほうに、それを冷静に見ている自分の存在を作りなさい」と。同じようなことを、スケートの清水だろうか、イチローだろうか、そのあたりの超一流のスポーツ選手(ものすごくあいまいですみません)が言っていたような気がする。


こんな考えにひたってからふと氏の文章に戻ると、意外なことに、孔子の六芸に言及してはるではないか。なかでもその2番目の「楽」を挙げ、氏はこのように言う。

それ(引用者注:音楽を聴き、演奏すること)ができるためには、「もう聞こえなくなった音」がまだ聞こえて、「まだ聞こえない音」を先取り的に聞いているということが必要です。それができなければメロディもリズムも感知できません。それは言い換えれば、過去と未来に感覚の触手を伸ばして、現在のうちに引き寄せるということです。「もう存在しない音」と「まだ存在しない音」を今ここで聴くことができることができる人にしか音楽は聞こえない。楽とは「聞こえない音を聞く」能力の開発プログラムです。


「音を奏するその瞬間に仕事は終わっている」と恩師は言った。つまり、「まだ聞こえない音」をこれから奏するために、右手・左手・その他さまざまな心理的用意をすませたときに、もう奏でる音は決定したに等しい。音が鳴ってからではもう取り返しがつかないのである。だからこそ、イメージをとぎすませ、できる限りの準備を整え、その音を創り出すのである。


一方で、「自分が奏した音に責任をもちなさい」と恩師はおっしゃった。奏し終わった後、それが成功だろうが失敗だろうが、自分が責任を持たねばならない。特に残響の管理に対して私が鈍かったので、具体的にその点について指摘を受けたが、でも、責任持つべきは残響ばかりではなく、あらゆることに渡るだろう。


それと、氏の書いた概念がまったく重なるかどうかは分からないのであるが、思いっきり個人に引きつけて解釈したあげく、折に触れ思い出す恩師の教えを、また再び俎上にのぼせて深くかみしめることになった。


音楽であれスポーツであれ、はたまた学問であれ、何かを極めた方のことばというのは概して普遍性を有すると思うのだが、果たして、自分が学ぶべき「ことば」は、ほんとうにどこにでも転がって居るなあと思った次第であった。